ハッスルとパロディ(マンガ)を考える

とにかく久々に大笑いしたハッスル・マニア。その後、2chでは八百だなんだという声も交えつつ意見がカキコされてましたが


試合詳細・感想・プロレスファン的観点などはプロレス/格闘技 カクトウログさんで。

以下は、偏ったオヤジマンガファン兼視野の狭い格闘技観戦好きの意見。


まず、私は「魅せる」ということを最終目的に置いたときの八百長(というかブックとか呼ばれるもの)は肯定派です。

だって金払って見に行ったら楽しくないとやだから。たとえどれだけ強くてもつまらないと嫌です。(幸いにしてそういう観戦経験は多くありませんが)(あ、でもマンガで言ったらバキVSアライJr。w)

で、プロレスを「真剣/八百長」の二つに分けて考えたとき、何がその2つを分けるのかというと「結果」でしかないと思うのです。「過程を魅せる」ことを重要視している私にとって、それは「気にはするけど気に病まない」事柄なのです。
試合(構成)を魅力的にしようという意思があれば、「八百」は決してマイナスに働くものではないと思うのです。私はプロレスの「試合過程/構成」に期待して見ています。

例えそれが「和泉モトヤが鈴木健想に勝つ」という「珍奇な結果」であっても「試合過程/構成」が「珍奇な試合過程/構成」であれば良いのです。
HGとインリン様もしかり。
(そういう点では小川はしょっぱかった。客席からも「小川!流れ嫁!」って言われてたし)

こんな私が、ふと思ったのが「(マンガの)世のパロディブーム」
(実は(俺夜)DJの構成<フロアを沸かせるためにメジャーな曲も入れつつ、自分の好きな毒も入れる>にも似てるかなと思ったけどそれは割愛)


で、肝心のハッスルとパロディ(マンガ)の関係。

ともに、前提とする対象がありつつ、それを詳しく知ってても、そうでなくても、面白いモノに仕上げる「魅せる側」と「受け止める側」でビジネスが成り立っています。
プロレスでは「八百」かもしれないけど、確実に客は魅せられ、マンガでは(他作品の褌で人気を得るという意味で)「パクリ」かもしれないけど、笑う。

この事実は、批判はできても否定はできないでしょう。そういう「時代」がきたとはいいませんが「瞬間」はあったのです。

和歌の「本歌取り」を例に出すまでもなく、これは他のジャンルではすでに「アリ」とされている流れです。

その流れがプロレスや市販のマンガでも、ようやく来たのかもしれません。
※これまでもある程度の規模の「パロディ(本歌取り?)」はあったと思いますが(ウェスタラリアットととアックスボンバー、幽遊白書と××××など←コレは違うかw)、大きな流れ(というかハッスルの場合は「興行全体がそれを当てにされている」、タイゾウなどの場合は「作品として成立している+ジャンプでやっている」という状態)ではなかったと思います。

とはいえ、それらは偉大なる「王道」の先達の遺産で構築されていることも事実です。
※ハッスルの中でも「王道」はありました。ジュニアの試合はレベル高かったですよ。飛べば高いし、ロープの使い方も上手だし、すぐリング外にムーンサルトするし。それもいい試合でした。ハッスルを評価する理由のひとつです。


だから、両方がバランス良く、長く続いていかないといけないと思うのです。

マンガはちっとは知ったジャンルなので、比較的バランスが取れていると私が言えるように思いますが、プロレスは、いうほど詳しくないのでなんとも言えません。

願わくば、「王道」「パロディ」がともに幸せな道を歩んでもらえればなぁと思います。

あのハッスル・マニアの動員と一体感は(仮にその中身が「狂言師」や「フォー」だったとしても)は確実に新日を超えてたよ。


で、最後に、ふと過去にプロレス/格闘技 カクトウログさんで見たと思う、ハッスルに参戦する天竜のコメントを思い出す。確か「プロレスに恩返しがしたいから(ハッスルも含めた)あちこちで出る的なこと」を言っていたと思いますが、その辺を超ベテランたちは(あえて、そこに長州も含める)肌で感じているのかもしれない、と思いました。

両方がそれぞれの生き方を全うしないと、「王道」も「パロディ」も育ち得ないのです。

両方、がんばれ。